著者ノート ── 何が史実で、何が創作か
数に入らぬ者 第一部『王の交換』 / 桜久
本作は、史料検証にもとづく創作である。
作中の出来事を、執筆にあたって三つに分けて扱った。確実(同時代史料で確認できる)、伝承(後世の記録や逸話に由来し、同時代の裏づけを欠く)、創作(作者の構想)である。読者が、どこまでが記録でどこからが想像かを見分けられるように、以下に整理しておく。
確実 ── 記録にあること
弥助という名の黒人が実在したことは、複数の同時代史料に記されている。ヴァリニャーノに伴われて来日したこと。天正九年二月二十三日に信長に謁見し、見物人が殺到して死傷者が出たこと。肌の色を確かめるために身体を洗わせたこと。扶持と私宅と鞘巻を与えられたこと。本能寺で戦い、のち二条新御所へ移って戦い、明智方に捕らえられて南蛮寺へ送られたこと。これらは記録にある。
同じ天正十年前後の出来事として、次も記録にある。大村純忠による長崎・茂木のイエズス会への寄進(一五八〇年)。石山本願寺の降伏(同年)。フランシスコ・カブラルの布教長解任とマカオ移動。京都御馬揃え(天正九年二月二十八日、総奉行は明智光秀)。ヴァリニャーノの天正遣欧少年使節を伴う長崎出航(天正十年二月)。五月十七日、光秀が家康饗応役を解かれ中国出陣を命じられたこと。六月一日の本能寺茶会と名物三十八点。そして六月二日が、織田信孝の四国渡海軍の出航予定日であったこと。
有岡城をめぐる出来事も、記録にある。黒田官兵衛が天正六年から翌年の落城まで、約一年にわたり荒木方に捕らえられていたこと。信長がオルガンティノを使者に立てて「降らねば宣教師を殺し教会を焼く」と通告し、高山右近が剃髪・丸腰で出頭して高槻城を明け渡したこと。明智光秀の娘が荒木村次に嫁いでいたこと。黒田官兵衛が受洗し、洗礼名「シメオン」を名乗ったことも、確実である。
さらに、日本人が南蛮貿易のなかで売買されていたことは、教会側の記録にも残る事実である。一五八七年のバテレン追放令が弾劾した項目に、長崎の寄進と人身売買が含まれていたことも記録にある。作中の証文は創作だが、証文が存在しうる世界は、創作ではない。
伝承 ── 記録はあるが、裏づけを欠くもの
小説では使えるが、史実として断定できないものがある。本作では次の四つを、そうと知って用いた。
信長が安土城で自らを拝ませたとされること。城の公開と入場料の徴収は記録にあるが、神格化の解釈はフロイスの記述に依り、評価が分かれる。
献上された時計を「直せぬものは要らぬ」と断ったとされる逸話。信長の人物像として広く語られるが、同時代の裏づけは弱い。
六月一日の本能寺茶会に博多の神屋宗湛が参席したとされること。『宗湛日記』に記述があるが、同記の成立年代と当該記事の信頼性には議論がある。
黒田官兵衛が有岡城の「土牢」に幽閉され、脚が不自由になったとされること、また竹中半兵衛が信長の命に背いて松寿丸(のちの黒田長政)を匿い、官兵衛の救出前に病没したとされること。いずれも江戸期の家史『黒田家譜』などに由来する伝承で、同時代史料での確認は難しい。半兵衛が天正七年に病没したこと自体は確実。
現在の研究が示していること
本能寺の変の原因について、現在の研究では、単一の怨恨ではなく、複合的な要因による計画的な政変という理解が有力である。とりわけ、長宗我部氏との外交をめぐる問題は重要な論点とされる。
明智光秀が長宗我部元親との取次を務めたこと、斎藤利三の縁者が元親の縁戚に連なること、信長が四国方針を転換して元親に阿波・讃岐の放棄を求めたこと、そして二〇一四年に公表された『石谷家文書』により、元親が方針転換を受け入れる旨の書状を天正十年五月二十一日付で斎藤利三へ送っていたことが判明したこと——これらは、光秀の立場と動機を考えるうえで無視できない材料である。
本作は、この研究状況を否定しない。 作中で光秀が追い詰められる過程は、四国問題と、長崎をめぐる問題の、両方によって描かれている。信長が長宗我部から国を取り返そうとしたことと、教会から港を取り返そうとしたことは、同じ一つの行動原理として扱った。
創作 ── 作者の仮説
本作が付け加えたのは、その背後に、南蛮貿易とイエズス会の情報・金融ネットワークが存在したという仮説である。
具体的には、次のすべてが創作である。
天正十年二月に長崎で開かれた七人の会合。そこで交わされた会話。「教えるのをやめる」という決定。硝石の流路変更と情報供給の停止。信長を「足りぬ者」として選んだ二十数年前の取引。次の王の選定基準。反対した司祭とその末路。
六月一日の茶会で信長が人身売買の証文を客に回覧させ、「長崎は取り上げる」と公言したこと。信長が長崎直轄化を公言した記録は存在しない。
高山右近と中川清秀が相前後して安土を訪れ、同じ言葉を口にしたこと。日向守に六月二日という日取りが伝えられたこと。
作中で光秀に日取りを渡す「ヨハネ」は、実在しない創作上の人物である。同様に、堺の老人、長崎の同宿、厩の年寄りなど、弥助が聞き書きの相手とする人物の多くは架空である。
信長が光秀に家康暗殺を内々に命じたこと、「中国表への加勢」を名目に兵を挙げさせ、道中の家康を討たせようとしたこと、信長自身は無防備を装って京にとどまったこと、光秀がこれを裏切り、娘婿の細川忠興を通じて家康に危険を知らせたこと——この一連の筋も、すべて創作である。「信長が家康暗殺を計画していた」という説自体は、江戸期の逸話(『川角太閤記』など)や一部の研究者による仮説として存在するが、渡邊大門氏をはじめとする研究では、一次史料の検証により否定的に評価されている一説にすぎない。本作は、この学界では分の悪い仮説を、あえて中心に据え、「家康を討つはずだった夜に、信長自身が討たれた」という反転として描いた。
そして、本書そのものの成立——弥助が語り、港で会った若者が書き取ったという枠組み——も創作である。
「イエズス会が本能寺の変を起こした」という史料は、存在しない。
作中でその結論を述べるのは、常に弥助である。作者ではない。弥助は繰り返し「証しは、何もない」と書き、自分が断片を並べて意味を作り出していることを自ら疑ってみせる。第二十四章で、彼は自分の推論を組み立てた直後にこう書く——そう、断じてよいのか。
これは、読者への注意書きでもある。
本作が繰り返し描く構造——信仰を通じて対立を生み、現地の為政者に統治を代行させる——は、後世の政治史で「間接統治」と呼ばれる手法に酷似している。だが、この言葉自体は十九〜二十世紀の植民地統治から生まれた概念であり、弥助はもちろん、十七世紀のいかなる人物も知りえない。本文中で弥助が「後に、遠い国の言葉で、これに名がついたと、私は聞いた」と書きながら、その名を明かさないのは、この時代的制約を守るためである。
分からないままにしたこと
二つある。
一つは、明智光秀のその後である。天正十年六月十三日に山崎で敗れ、落ち武者狩りに遭って死んだ、というのが記録の伝えるところであり、本作もそれを覆さない。南光坊天海の前半生に記録がないことは事実だが、両者を結びつける史料はなく、同一人物説は俗説である。本作はそれを主張しない。ただ、弥助という一人の男が、四十年かけてそう信じることに決めた、という形でのみ書いた。
もう一つは、弥助自身である。その出自も、本名も、天正十年以降の消息も、記録に残っていない。作中の故郷、家族、連れ去られた経緯、インド(作中では「槍を持たされた国」)での従軍、その後の澳門や呂宋での歳月は、すべて創作である。
記録が途絶えているという、そのことだけが確かである。本作は、その空白に物語を置いた。空白があるから置けたのであり、空白を埋めたと主張するものではない。
なぜ、この人物に語らせたか
弥助は、当時の日本において、ほとんど唯一、利害を持たない目撃者でありえた人物である。
家がない。名がない。所領がない。守るべき血筋も、恐れる主君も、都合のいい嘘をつく理由も持たない。記録を残す側にも、記録を消す側にも属していない。
歴史を書くのは、たいてい、勝った者か、書く理由のある者である。本作は、書く理由を何も持たない者が、四十年遅れて書いたらどうなるかという問いから出発した。
答えは、作中にある。彼は、訊かれなかったから、書かなかった。そして、訊く者がいなくなってから、書きはじめた。